秘密   秋永真琴


 本の買い取りに出向いたアレイ=ホシノを迎えたのは、平凡な印象の初老の男性だった。
「あんたが、本当に〈古本黒瓜堂〉?」
「の、店主の娘です」
 初めての客とのこんなやりとりは、ほとんど毎度のことだ。
 こんな小娘では話にならない、店主が直に来いと追い返されることもある。
「あんた、帰ったほうがいい」
 こんなふうに。
だが、今回はーー
「あんたが死んだら父さんが悲しむだろう」
 声音には目の前の少女を案じる真実の響きがあった。
「本が娘を殺したら、本を嫌いになっちまう」
「殺すとは? 本に、何か呪いが?」
「いいや。ただ〈秘密〉が書いてあるだけだ」
「ひみつ」
「読んだ者はみな、あまりの恐ろしさに精神が崩壊し、廃人になるか自殺するかーー」
 そんな〈秘密〉が書いてあるんだ、と老人はいった。
「見せていただけますか」
「大丈夫か」
「査定して、買い取る。それが仕事なので」
 老人はしばらくためらっていたが、やがて、スラックスの後ろポケットに手をやった。
戻った手は、一枚の紙きれにしか見えないものを握っていた。
アレイは紙を受け取って、目を通した。
ほんの数行の記述である。
それが、アレイの全身を震えさせた。
目から血を流し、口から泡を吹き、身体じゅうを粘ついた汗でどろどろにしてーー
アレイは溶けるように倒れた。
「やはり、だめか」
 老人は疲労の染みこんだ声でつぶやき、足元の少女を悲しげに見下ろした。
「これからも俺が管理するしかーー」
 語尾がかすれた。
 アレイがゆっくりと起き上がったのだ。
 生まれたての動物のように、頼りなく足をふらつかせ、見栄えの悪い中腰の姿勢で。
 それでも、立った。
「確かに、すさまじい〈秘密〉です」
まるで砂漠を何日も彷徨ったように、頬が削げ、唇がひび割れている。
しかし、アレイの目は爛々とかがやいていた。
「これほどの絶望をもたらす、災厄のような記述に出遭ったのは、人生で何度もありません」
 それは、何度かは経験しているという意味であった。
 免疫があるから、致死の衝撃にはならなかったのだ。
 二十歳に満たない人生で、どれほどの魔書、妖書を見てきたのか。
 この少女こそが恐るべき災厄であるかのように、老人はアレイ=ホシノを見つめた。
「この〈秘密〉の内容でしたら、値段はーー」
「いい」
「ーー?」
「管理を任されて数千年ーーやっと〈秘密〉から解放される。カネじゃ買えない喜びだよ」
 声を弾ませる老人が、砂のように崩れていくのを、アレイは茫然と見つめた。
「頼んだぞ、古本屋のお嬢さんーー」
 服だけをその場に残して、老人の肉体は消滅した。
 アレイは手にした紙きれにちらりと目を落として、ため息をついた。
「とんでもない〈秘密〉の管理を引き継いじゃった」 。





秋永真琴
小説を書いています。「眠り王子と幻書の乙女」「怪物館の管理人」など。

この掌篇は「行き先は特異点 年刊日本SF傑作選」に収録された「古本屋の少女」の姉妹篇です。
よかったら併せてお楽しみください。